アリストテレスとは、ソクラテスとプラトンの哲学の最大の後継者である。まず、プラトンとアリストテレスを比較しながらアリストテレスを説明してみたい。
プラトン:すべてのものは永遠普遍の本質(イデア)を実体とし、現実はその仮像(かぞう)であると考え。(【仮像】とは。意味や解説。鉱物が本来の結晶形を示さず、外形を変えずに、成分が置換して新しい鉱物になったもの。 )
イデア論:形のあるものには必ずその奥に本質があり、本質こそ普遍的で、現実はその「仮像」である。永遠普遍の真、善、美が最初に存在しており、感性でそれをつかむことはできない。したがって、そこに近づくために理性があり、理性が人を人として高めるのである。これこそがイデア論だ。
プラトンの眼の前にあるりんごは本質(イデア)ではなく、仮像である。本質は人間が感性で捉えることのできない。理性によってのみ捉えることができる。
有名な例として三角形の例がある。どんなに頑張っても正確な三角形はかけず、結局できそこないの三角形を正三角形と仮定して、物事を捉えようとする。本当の普遍的で正しい正三角形を認識しなければ、現実が成り立たない。
アリストテレス:プラトンが普遍を個別と切り離し、個別の上に普遍をおいたのに対し、アリストテレスは普遍的なもの(イデア=エイドス)は個体と区別はされるが分離はできないと考えた。そして、この「存在を存在として研究する学問」を「形而上学」と呼ぶ。
アリストテレスにとって、目の前にあるりんごは単なる仮像ではなく、本質も内包しているということだ。
プラトンがイデアを超越的に設定し、現実を影のようなものにしたのに対し、アリストテレスは現実から出発した。アリストテレスもプラトンのようにイデアに当たる形相(エイドス)を考えながらも、それを現実化するための質量(ヒュレー)を考えた。たとえば、質量としての木材があるとすると、大工がこれに形相を与えることによって現実の家ができるというわけであるつまり、イデア(エイドス)だけでは現実が成り立たない。
こうした彼の哲学をなんとか創造法にいかせないだろうか。プラトンの考えもまた、創造法に活かせないだろうか。
我々は仮像ばかりに目を向けて、イデアに目がいっていないことがないだろうか。なにかを創造するときにどうでもよい仮像ばかりに着目して本質であるイデアを意識できずにいるのではないだろうか。このイデアを意識できたときに初めて創造の爆発が起こるのではないだろうか。プラトンによればイデアを捉えるのは理性によってのみ可能だというが、そもそも理性とはなんだろうか。
アリストテレスによればエイドスとヒュレーは共に現実を構成するというが、我々は普段ヒュレーを意識できているのだろうか。
次回はこれらの基礎哲学をふまえて、形而上学で創造法を考えるの記事を書きます。
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